Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

自分の真実くらい

 

 今日は完全に

自分のために書きます!

(公開セルフセッション的に)

 

 

もし、身近な誰かが

臨死体験」の話を

はじめたとします。

 

びっくりはするけど、

 

臨死体験のような話なら、

「そういうこともあるのか」

と受け入れてもらえる

場合が多いのかなと思う。

 

 

でも、それがたとえば、

「実はUFOに乗ったことあって…」

という話だった場合、

 

「おいおい」っていうか、

 

「イテテテテ」っていうか、

 

やんわり聞いてはくれていても

ホントのホントには

信じてもらえない場合が

多いのかなって思います。

 

 

前回の続きでも

あるのですが、

 

「なにが真実か」

というのは

 

段階によって

実は共有できない

こともある。

 

いくら自分にとって

それが真実であっても

 

受け入れがたい人が

いるっていうのも

わかる。

 

 

であるならば、

 

大切なのは、

相手の反応ではなく、

 

自分が真実と

感じていることに

自分が疑いをもたないこと

なんじゃないかなって

思ってて、

 

いかなる場面に

おいても、

 

自分の真実に対して

他ならぬ自分が、

 

「おいおい」とか

「イテテテテ」って

 

してしまっては

いけないのだと思う。

 

 

「UFOに乗った」

 

のような話って、

 

人によっては

ひどい妄想としか受け取らず、

 

人によっては

「あなたもですか?」

みたいなことかと思うから、

 

 

やみくもに人に伝えたり

わかってもらったり

しなくていいと思うけど、

 

どんなにハイパーで

信じがたいことであっても、

 

真実は真実と

堂々としていてよくて、

 

多数派に合わせることも

もうないのだと思う。

 

 

ゲームやスポーツは

ルールがないと

プレイできません。

 

たとえば

サッカーなら

「手は使わない」

というルールがあるけど、

(キーパーとかスローインとかは置いといて)

 

わたしたちも

長きにわたる

「地球の制限」

というルールの中で

 

「実は手が使える」

なんてことを

言い出せなくなってた

サッカーの世界の人みたいな

感じなのだと思う。

 

サッカーでは手を使わないだけで、

サッカー選手は手は使えますよね。

 

わたしたちも本当は

ハイヤーセルフの自分を思い出したら

自分の人生の創造主としての手が使える。

 

 

ただ、今はまだ

「わたしたちってホントは手を使ってなんでもできるよね!」って言っても、

 

「は?!」

みたいな反応が

多い段階だけど、

 

もう気づいた人から

「いち抜けた」

ってすればよくて、

 

声高に伝えたり

ということよりも、

 

ひとりひとりが

もう無用な自分の制限を外して

本来の自分の手足を自由に使って

ただ生きていれば、

 

それを見てさらに

まわりの人も

そうなっていくのだと思う。

 

 

わたしにとっての

「UFOに乗った」

みたいな話があります。

 

めちゃめちゃ

地球の素材での

出来事だから、

 

UFOみたいに

ハイパーではないのだけど、

(いや、地味だけど起こっていることはハイパー)

 

 

聞く人によっては

「おいおい」みたいな

「イテテテテ」みたいな

 

妄想話にも

受け取られる

ようなお話で、

  

わたしにとっては

真実に他ならないながら

 

わたし自身もずっと

 

疑いというか

照れというかが

払拭できず、

 

「妄想ひどいでしょ、あはは!」

みたいな態度でいたかな

って思うのだけど、

 

もう何年も

このことやってきて

 

今たどり着いているのは、

 

もし誰も信じなくても

 

わたしの真実を

わたしが堂々と信じなくて

どうする! ということ。

 

 

この件では

自分でもわからなすぎて

(かたちも名前もないエネルギーの上での出来事がメインだから)

 

本当にたくさんの

セッションを受けてきました。

 

 

前世のことも

モリモリに

ゲロゲロに

出てきた。

 

その解放、統合のための

プログラムってわかってくると、

 

だからこそ

「こういうエンディングを!」

みたいな執着が生まれたりするけど、

 

希望通りのエンディングに執着するのも

あらたなるカルマをせっせと作ってしまう

だけかとも思うので、

 

とにかくもう

かたちなどなんでもいいから

統合あるのみって思う。

 

 

本当は時間は今しかありません。

 

今の自分の真実で

自分が動かなくて

どうするって思う。

 

真実って、

真実の自分(ハイヤーセルフ)に

戻るために必要なことだと思うから、

 

真実で選んでいった道には

歓迎できないような出来事もあるけど、

でもそれは近道になるから起こるので、

魂はよろこぶやつ。

 

 

わたしのUFO的出来事も

近道プログラムって思ってるし、

 

このことで、

たくさんの方のセッションを

受けられたことも

思えばすばらしい体験だったのかも。

 

セッションは

それぞれに

 

「あなたはUFO乗ったよ」

「そのUFO本当にあるよ」

「そのUFOはちゃんと思っているところにつくよ」

 

って、

それぞれの言語で

確認をもらうような

ことばかりなのだけど、

(念のためですが、UFOは比喩です)

 

いざ自分で取り組みはじめると、

 

「いやいや、UFOってあなた…」

 

ってどうしても自分が

自分につっこんでしまって、

 

これがトラップだった

って思う。

 

 

自分の真実に

自分がつっこんでいては

 

開く扉も開きません!

 

 

 

茨木のり子さんの

「自分の感受性くらい」

という詩があります。

 

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

 

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

 

 

 

 

自分の真実くらい

自分が信じろ

ばかものよ

 

 

今朝はなぜかそんなふうに

目が覚めました。

 

 

 http://healingroom3.com

 

 

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冷えとり靴下のストックいっぱいとともにエムエム・ブックスで購入しましたのは『美しき緑の星』。

 

『アマテラス』にも感じましたが、啓示的であっても、批判的ではない。ちゃんと娯楽作品として成立させるところに地球への敬意と愛を感じます。

 

他の星への派遣の希望者を募るとき

 

「◯◯星がいい人」

(いっぱい手が上がる)

 

「地球がいい人」

(シーン)

 

「△△星がいい人」

(いっぱい手が上がる)

 

「地球がいい人」

(シーン)

 

ってところが

コントみたいだった。

 

この脚本は舞台でやってもすごくよさそうだなあと感じました!

 

 

地球人の眠りを覚ます「接続解除」がわたしにも効いたのか、長いこと手放せなかった「喪失の記憶」が昨日あたりから解除されている感じがある。

 

「喪失って?」みたいな。

 

まだ、ぶり返すことがあるにしても、

こんなことははじめて。

 

 

いよいよ、あと少しって感じがしてきた!