Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

自立=自由/セカンダリーゲインってなんじゃろ?

 

セカンダリーゲイン

という言葉を

ご存じでしょうか。

 

心理学の用語に

なるのかと

思いますが、

 

日本語では

「二次的利得」

「二次的メリット」

などと訳されます。

 

たとえば、

 

病気の症状に

苦しんでいる一方で、

 

その病気があるからこそ

家族にやさしくしてもらえたり、

なにか保護を受けられたり

することを、

 

自分が「利益」と

感じてしまって

いる場合があります。

 

ほかにも、

 

実家に住み続けていることで

不自由を感じていたり、

自分の本当の可能性を

生きられていないことを

感じていたとしても、

 

家賃の心配が

いらないことなど 

自分が「利益」と

感じてしまっている

ことがある場合など、

 

「問題」があるからこそ

その利益があると

なってしまうので、

 

それを自分が

「利益」として

しまっている限り、

 

その問題が

いつまでたっても

なくならない。

 

セカンダリーゲイン

(二次的利得)は

この現象を指した言葉です。

 

 

苦しみや制限を

選択しているのは

他ならぬ自分だったり

する……。

 

 

この構造を

自分の場合で

考えてみました。

 

わたしの

セルフイメージは

 

「出来はわるいのに

人に恵まれた幸運な人」

 

 

長いこと

こんな感じだった

と思います。

 

 

自分は

「ボーッとしていて」

「世間知らず」で

とにかく

ポンコツ!」

 

にもかかわらず、

なぜかものすごい

ご加護があって

 

人にも運にも

恵まれてしまう。

 という感じ。

 

自分が体験することは

 

外側の「幸運」

というものが

もたらしてくれていて

 

自分の「実力」

ではない、

みたいな感じ。

 

 

いくつかの職場を

体験してきた中でも、

 

わたしは

ポンコツ」なのに 

「恵まれて」いたから

なんとかやってこられた

とずっと思ってきたと

思う。

 

でも、

もう結構長くも

生きてきて

思いますのは

 

自分はもちろん

オールマイティでは

ないけれど、

 

得意なことに関しては、

 

むしろ、

オリジナリティ

があったり、

 

自分だからこそ

よろこんで

もらえるようなことが

たくさんあるんだな、

 

って

わかってきて、

 

だとしたら、

 

どうして

そこまで

自分を

ポンコツ」と

思ってきたのか。

 

ここに、

セカンダリーゲインの

構造を発見します。

 

わたしは自分は

ポンコツ」であることで

「にもかかわらず尊重される」

という「利益」があると

思っていたんだと思う。

 

 (「にもかかわらず」っていうのが

めちゃめちゃお気に入りだったのかと思う)

 

わたしは

 

息を吸うだけでも

ほめられるように育ちました。

 

教育的にというわけでもなく

大らかでやさしい

両親は無意識に

そうしていた感じでした。

 

幼いころわたしは

なにかができたから

自分には価値があって

なにかができないから

自分には価値がない

なんてことは考えたこともなく、

 

無条件に

肯定があるのは

当然なのだと

思っていました。

 

アホまるだしで

「お空がきれい!」とか

お花畑をかけまわって

まったく転ばずに育った

みたいな感じ…

 

 

学校では

そうはいかなかった

とは思いますが、


かなりの不思議ちゃん

だったと思うのに

学校でいやな思いを

したことはほぼなくて、

 

みんなと興味の対象が

ずいぶんちがっていた

かと思うし、

 

わたしは他者と一定の

距離がないといられないので

相当つきあいも悪いのに、

 

(今にいたるまでわたしはばれない程度の引きこもりです)

 

そういうわたしを

尊重してもらったとも

感じています。

 

社会に出ても

似た感じだった。

 

 

「人とちがって、人づきあいとか

みんなができることができない」

 「空想ばかりの不思議ちゃん」

という自分を、

 

わたしは

ポンコツ」という

くくりとして、

 

にも関わらずに

やさしくしてくれる人たち

ばかりだということを、

 

「幸運」という

くくりとしたの

だと思うのですが、

 

結果

「幸運」であるためには

ポンコツ」であることが必要

というのが

わたしの中でセットに

なっていたのだと思う。

 

この構造が

仕事などの失敗を呼び寄せて

「やっぱりわたしってポンコツ!」

という上書きをさせてきたの

かもしれないのですが、

 

最近はとくに

ポンコツの上書きというのも

あまり起こらなくて、

 

むしろ

「ナイスプレイ!」

みたいなことが多い。

 

そして、ポンコツを上書きしなくても

わたしの幸運はつづいてもいます。

 

 

あと2回誕生日が来たら

半世紀生きたことにも

なりますし、

 

もうそろそろ

そう考えても

いいのかなって

思っているのは

 

人がわたしにやさしいことや

わたしが幸運なことは

 

単にわたしが

相手をどうみてきたか

とういうだけのこと

だったのかなと

思えてきています。

 

それは

わたしの能力も

あってのことだったの

ではないかなというか。

 

(もちろんご縁があった方への感謝の大きさは

まったく変わりませんが!)

 

いつもその相手のどこを見て、

どの部分とお話したら

相手をすきでいられるかを

わたしは瞬時に判断して

きたのかなと思うのと、

 

必要ならば自分をプロテクトして

相手にわるい感情を

もたないようにも

してきたとも思う。

 

どうしたら感謝を持って

相手と関係できるのかってことを

とっさにずっとずっと

やってきた結果という

だけだったのかも…って。

 

 

これは

今住んでいる場所でも

感じていて、

 

子育てって

学校とか

ママ友みたいな

関わりの中で

 

なにか

トラブルのようなものも

少なからずあるのかなとは

思うのですが、

 

これも

わたしほとんど

体験がないんです。

(正確にはあったとは思うけど、納得できる結果があるから持ち越さない)

 

ご近所も

すごくよい距離感で 

 

娘が生まれて

この土地に引っ越して

近所には同じ時期に

入居した家が

数棟あるのですが、

 

必要なときには

協力しながら

一緒に子どもたちを

見守ってきて、

 

かといって

ベタベタした

おつきあいは

皆無で、

 

「ママ友とランチ」

とかわたしにとっては

全身がフリーズする

ワードだったりするのですが

(笑)

 

「ママ友とランチ」

に行かなくても

必要な情報は

宇宙タイミングの

近所の井戸端会議で

もらえたりしましたし、

 

わたしがつきあい悪くても

居心地のよさに影響はない

みたいな、

 

学校のころと

すごく似た感じ。

 

これはもはや

 

幸運というのでもなく

 

わたしが世界を

そう見ているという

だけなのかな?って

なってきている。

 

背景に

幼少期に無条件の愛を

いっぱいもらったことは

影響のひとつとして

あるように思えていて、

 

自分とどんなに

ちがう相手であっても

無条件に肯定の対象だと

思ってしまうので、

 

思えないのであれば

どの角度だったら

そう思えるのかを

探ってしまうし、

 

 

それが難しいなら

わるい感情を持たないように

自然とシャッターが下りて

肯定できる部分とだけ

お話します。

 

お天気の話とか

おいしいものの話とか

お笑いの話とか

 

相手が誰であっても

お互いがたのしく話せる

話って絶対あるから。

 

 

 

先日受けたセッションで、

 

わたしが

超絶繊細であることが

出てきたのですが、

(自分で繊細って言うのも

照れますけど)

 

わたしが長きにわたって

うっすら引きこもりだったのは

 

どうしても必要だった

プロテクションだったのだとも

思います。

 

そのおかげで

無理にまわりに合わせて

自分を歪めたりせずに

いられた、

 

わたしは自分の感性を

フルッフルの

鮮度のまま

持ち運んでこれたと

感じています。

(そうしないといられなかったからだけど)

 

このフルッフルのなにかを

これからはもっともっと

活かしていけたらと

思っていますし、

 

そんな自分のことを

ポンコツ」などと

呼ぶことを

わたしは金輪際

やめなくてはいけません。

 

 

セカンダリーゲインは

 

どういうかたちにしろ

「依存」の説明なのだと思います。

 

わたしも

「ダメな自分」で

いる方がいろいろ

言い訳できて、

 

自分が背負うことが

少なくて楽だと

思っていたのだと思います。

 

 

でもその場所に

いたままでは

 

「ダメな自分」以外が

表現できないのだし、

 

 

握りしめてる

幻想の「利益」を手放してこそ、

 

自由や豊かさといった

本物の「利益」を自分が

手にすることになっていく。

 

  

「パートナーに出合いたい」

「経済的に豊かになりたい」

「長年煩っている病気から解放されたい」

 

もしも心からの願望が

なかなか実現しないのだとしたら

 

そのまままの自分でいることの後ろに

なにか利益と感じられることが

かくれているのかもしれません。

 

 

 

すべては

自分の喜びを

拡大していくための

お話です!

 

そのために、

「自立」というのは

必修の単位なのだと感じていて、

 

きびしいようでも

修行ではありません。

 

  

自立=自由

というだけなのだと思う。 

 

 

他でもないわたし自身のこととして。

 

 

 http://healingroom3.com 

 

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記事に無関係なのですが…。

 

髪を切ったら意図したよりも

かなり短くなってしまって

(美容室で上手にオーダーできない問題はわたしの形態形成場だと思う…)

 

持っている服が全部似合わないような

きがしてきていて、

 

もう少し女性らしい服を着たいような

きもちになってきている。

 

なんとなく思いついたのは

デビューしたころのコリーヌ・ベイリー・レイ

 

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先日時間を潰す必要があって

通りがかった古着屋に入って

ワンピースを物色したものですが、

 

ワンピースなのか?

 

ワンピースが着たいのか!?

わたし。

 

突然なんの話かというと

短すぎる髪に何を着たらいいのかという…

 

肉体生をちゃんとたのしむことは

メインとも言えるわたしのお題ではありますが、

 

ファッションや髪型のことは

ずっとよくわかりません。

 

エビフライのようには。