Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

常なるものにたどりつくとき/ギミックはもういらない


常なるものを

求めますと

 

諸行は無常と

知ることと

なりますが、

 

諸行は無常と

知りますと

 

常なるものに

たどり着いたり

します。

 

(誰!?)

 

今、

ものすごい勢いで

崩壊していることが

あると思いますが、

 

だからこそ

あらわれる

 

常なるものが

あるのだと

思うのです。

 

 

マドモアゼル・愛先生の

月のお話では、

(動画ライブのアーカイブ

まだ途中までしか見られていませんが)

 

今までわたしたちが

どれほど

幻想にとらわれた身で

あったのかということが

とてもわかりやすく、

 

また別の角度から

目を覚まして

もらえたような

思いがありますが、

 

月の視点が

なくなると、

(方向性も違えば

制限だらけでもあった

今までの自分を手放すと)

 

なにが自分か

わからなくなって

一瞬ポカーンと

なるのかとも

思います。

 

惰性もある程度

続いたりとか。

 

でも、これは

順当なプロセス

なのかなとも思う。

 

ポカーンとなっても

どうしても

あらわれてしまうものが

自分だと思いますし、

 

本当の自分は

絶対なくならない

常なるものです。

 

「愛」とも

また同一かと

思いますが、

 

さわれないし

つかめないものを

確信するために、

 

わたしたちは

自分バージョンで

さまざまな道を

設定してきたと

思うのですが、

 

これが今それぞれに

地球で佳境を

迎えているのかと。

 

(わたしもモリモリにプロセスの

まっただ中ではありますが

自分バージョンがなんなのか、

理解できたと思っています)

 

これは受身で

こなせるものでは

ないのだと思います。

 

日々自分に集中して、

 

必要な微調整を

おこたらないことが

大切だと思っています。

 

微調整とは、

 

違和感のあることは決してしない。

必要なことは正直に伝える。

ワクワクが発動する方向で

行動するなどなど。

 

並木さんのいう「こひしたふわよ」

のようなこと。

 

服部みれいさんも

「自己一致」の大切さを熱心に

話されていました。

 

 

最新の自己認識と

それに即した

実際的な行動は

いつもセットなのだと思います。

 

(自己認識だけで

止まらないことが

大切というか)

 

 

さわることも

つかむこともできない

大きなスケールのものを

理解するときに

わたしたちは

ギミックを利用してきました。

 

たとえば

「火山」というものを

理解するときに、

 

火山の模型をつくって、

 

ぱかっと開けると

断面も見えて、

 

地形が動くような

仕掛けもあったりして、

 

「おお、火山のしくみとは

こういうことだったのか!」

とすべてを理解したように

思えたりする。

 

でも、

ここで大切なのは

模型は火山そのものではない

ということです。

 

「なにを当たり前のことを……」

と思ってしまいますが、

 

実はこのギミックが

最後の最後の

本質に氣づく段階に

トラップともなりかねない

と感じています。

 

わたしたちは

自分たちを

常なるものへ

導くために

さまざまなギミックを

利用してきたと思います。

 

そしてそれは

今までの時代には

とてもとても

有効だったのだとも思いますが、

 

今本当に火山が爆発する!

というときに

(メタファです。念のために)

 

自分は模型の方に夢中!

 

っていうことが

ありえるって

感じるのです……

 

ギミックの

最たるものが

宗教ですよね。

 

もう模型として

アレンジされまくって、

本質と相当かけ離れて

しまっているのに、

 
この世界は

そんなギミックベースで

構築されてたり……

 

 

模型の火山眺めて、

 

「噴火しませんな……」

「そうですな……」

みたいな。

 

 

常なるものに至る過程には

ギミックはとても

助けになるのかと

思うのですが。

 

自転車の補助輪

のような感じで、

 

本当の自転車に

乗ろうというときには

補助輪は完全に

じゃまでしかなくなります。

 

そして

自転車の乗り方は

自分で憶えるしかない。

 

 

なにがいいたいのかというと、

 

「そうか!」

「わかった!」

 

の瞬間のために

わたしたちは壮大な

前振りをそれぞれに

アレンジして

やってきたとしたら、

 

この瞬間だけは

誰にもうばえない。

 

たくさんの指導者や

ガイドやサポートの存在にも

手出しができない領域です。

 

この瞬間だけは

自分が

自分バージョンで

やるのだと思います。

 

そのためには

今まで頼りにしていたことが

逆に妨げになることが

あったりもするのだということ。

 

わたしもこまめに点検して

今の自分には必要ないと

感じられることは

感謝して離れるようにしています。

 

助けてもらったり

相談したりということは

日々たくさんあるのですが、

 

こころの領域のことで

人に相談するということは

とても少なくなりました。

 

 

もうそこは

堀りに掘りまくったし、

 

だから今どうするのかも

わかったし、

 

そのプロセスがたとえば

しんどくても、

 

それは、

出産したいのだけど

陣痛はいやなんです

っていうようなものだから、

 

いやいや産みますって

何度でも立ち戻ります。

 

 

 

今日はとても抽象的に

なってしまいましたが、

 

たぶん今はそれぞれ

「自分バージョン」で

自分に向き合われている

ことと思います。

 

 

 

なにか伝わることがあったら

うれしいです。


 

 http://healingroom3.com

 

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ピーター・バラカンさんのラジオで聴いて、超好きだった曲、
よく知らないままネットで買いましたら、
超絶美麗紙ジャケCDが届いた。

(つるつるした白い厚紙のケースに、ピンクの部分の紙が裏面までぐるりと貼られていてめちゃかわいい。背表紙みたいなところに文字も入っているからちょっとでもずれたらダメで、これは手作業でつくられているの?)

70年代のニューヨークのアンダーグラウンドなジャズグループのようですが、あまりの美麗ジャケにCD化に関わった方のただならぬ思いを感じます。波動が高い!

 

アフガニスタンの民謡がベースの曲だそうです。即興演奏です。

東洋も西洋も、時代もジャンルも超越していて、

特に最初の部分に強烈にオープニング感があるため

勝手に統合の時代のオープニング曲にしています。

 

なによりシリアスじゃないのがよいです。

 

レコードだったらA面に1曲、B面に1曲という

長い2曲が入ったCDなのですが、

 

B面にあたるもう1曲も

ドリフ感というかクレイジーキャッツ感というか

コントがはじまりそうな感じ。

 

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半身浴をしながら大事に読んでいますのはこちら。

 

東京かわら版という演芸専門の小冊子がありますが、過去に掲載された喬太郎師匠の記事や、新たなインタビューが読めます。貴重なお宝資料がとにかくすごいんです!

 

喬太郎師匠

大学のとき落研で頭角を現すものの

落語への思いが強すぎてそのときは落語家を目指さず

一度書店員となってから、

さん喬師匠に弟子入りするわけですが、

 

さん喬師匠へ弟子入りの希望がありつつも

喬太郎師匠は逡巡していて、

さん喬師匠にもそのことが耳に入っていて……

という部分が

両思いだけど付き合うまで

何年もかかったふたり……

みたいで大好き。

 

 

喬太郎ファンの方は

よくわかっていただけると思うのですが、

 

喬太郎師匠って

失礼ながら美形とは

いえないかと思います。

 

でも、もはやわたしたちには

喬太郎は本氣でかっこいいんです。

 

落語協会が作った、落語家や講談師が

サンタのふん装をしているポストカードセット

喬太郎師匠の一枚がほしいあまりに

あとひと押しで買いそうでしたから、わたし)

 

喬太郎師匠が演じる

女性がどれほど美人か。

 

喬太郎師匠のことは

話せば話すほど足りない気持ちになります。

本当はなんで好きなのか

説明できないところが

好きなのかも知れません。