Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

こぼれイクラよりも、あふれる愛をこめて

北海道出身です。

というと、

日本全国たいていの方のイメージがよいもののようで、

 

さらにカニとか、ウニとか、イクラとか、

北海道ワードをちらつかせただけで、

熱い羨望を受けるものですから、

いつしかちょっとスレてきて、

もう最初から得意げに北海道出身を

名乗ってしまうのですが、

 

北海道のどちらから?と聞かれたら

思わず「札幌の方」と答えて

微妙に見栄を張ってしまいます。

 

正確には実家があるのは

札幌のおとなりの石狩市だけど、

広い北海道では

「札幌の方」にはなるだろうと…

 

 

娘がこの春から中1になりました。

中1といえば、さのに会った歳です。

 

さのがその後のわたしにとって

(そしてみんなをつなぐ存在として)

どれほどありがたい存在になったかを考えると

 

娘もそんな出会いに恵まれることを

願ってやみませんが、

 

中学生というのは、

人生のバカ度を表すグラフがあるなら

間違いなくピークの時期になるでしょう。

 

ある種の神聖さを感じるほどのバカさ。

本人たちには無自覚な。

その感じが、たまらなく、たまらなく好きです。

 

 

中学の頃のわたしはと言えば

ぽかんと開けた口から、魂を半分以上はみ出させて

どっか別の場所でも同時に生きてたかのような、

 

「ぼーっとしてる」というだけでは済まされない、

重度の不思議ちゃんだったと思う。

 

(さのはわたしがゼリー状の繭のようなものに

包まれてて、手を伸ばして触ろうとしても、

ゼリーがボヨンと跳ね返して触れなかった、

と表現していた)

 

中1のときとなりの席だった石田は

ひどい鼻炎かなにかで、マイ箱ティッシュを常に持っていて

授業中に鼻をかんだティッシュを全部

わたしの机のひきだしに放り込んでいたのだけど、

 

何しろわたしは魂が半分口から出ていましたから、

ぼんやりがひどすぎて、

休み時間になるとティッシュでいっぱいの

引き出しに毎回びっくりしていた気がします。

 

「やめてよ〜!」とか言うタイプでもなかったので、

 

無言でゴミ箱を持ってきてティッシュを捨て、

 

次の授業で石田はまたせっせと鼻をかみ

そのティッシュを放り込み、

 

休み時間にはわたしが捨てる、

 

というルーティーンが自然に生まれ、

 

鼻水も触れる仲とは申しますが

(いえ、申しませんね)

その後もなんとなく石田には

近しい思いがあるのが不思議です。

 

さて、落語でいうところのマクラが長すぎますが

ラブレターなんですこれ。

 

まだ中1のさのと石田しか出てきてないから、

相当長くなりそうです。

 

おつきあいいただけるのか不安ですが、

縦スクロールの限界に挑戦する勢いで

思い残しがないように書きたいです。

 

なんでしょう、

学生時代って素晴らしい!とか

友達最高!とか

ぜんっぜん思わないんです。

そういうことが言いたいんじゃないんです。

 

学校って閉鎖的でものすごく変な世界だと思うし、

どうしてもつらくて学校行けないって子が

いるのもすごくわかるし、

これからの時代を考えると、

今の教育ならどうしても学校行かないと

いけないわけじゃないのでは?とまで思う

やや極端な考えの持ち主でもあるのですが、

 

わたしが中学時代に体験したのは

自分がただただそのままで肯定されている

という幸福でした。

 

なにができても、できなくても、

「えのだから」(えのはわたしの旧姓のあだ名)

というだけで存在を受け入れてもらっていた。

 

特に、今もLINEのグループで存在する

「2の6」で過ごした時間は貴重なものです。

(さのも完全にいたよね!)

 

担任の「わかおちゃん」が

もうひとりの「あそぶ」という名前の先生と

一軒家をシェアして住んでいて、

 

そこにしょっちゅう遊びに行って、

(いつも本人たちがいないときに、

上がり込んでた気がするんだけど

それってどういう状況だったんだっけ?)

 

わかおちゃんちのフルーチェを勝手に食べ、

あそぶの部屋で見つけた彼女への手紙を勝手に読み(ひどすぎる…)、

ハイパーにどうでもいい話で死ぬほど笑って…

 

そして、わたしがハイパーにどうでもいい話で

死ぬほど笑っていた間に手に入れていたのは、

30年後、わたしの母が亡くなるときに

ふらふらで歩けないような精神状態のわたしを

支えてくれた人たちでした。

 

 

母が亡くなってもうすぐ3年経ちます。

 

今でもこのときのことを書くのはすごくつらいのですが

これが本題でもあります。

 

ものすごくがんばって説明すると(短くする努力はします)、

 

父が亡くなってからひとり暮らしになった母に

毎日電話するのが習慣でしたが、

2日ほど電話が繋がらなくて、

12月の末のことで、来週にはお正月の帰省で会えるからと

まさかなにかあるなんて考えられなかったけど、

万が一があってはと、

思い切って警察に電話をして、

自宅を見に行ってもらったら、

母が倒れていて、

窓を割って入ってもらって、

母の意識は一応あって、

救急車で病院へ運んでもらって、

わたしは頭が真っ白で、

夫がすぐに次の日の朝いちばんの飛行機をとってくれてて、

寝ないでそのまま空港に行くと「吹雪のため引き返すかも知れません」という

アナウンスが流れていて、

北海道に行くには陸路がないから、

繰り返し繰り返し流れるアナウンスにに気が狂いそうになって、

飛行機に乗り込んでもやっぱり、

「引き返すか、旭川などに着陸」というアナウンスに

気が狂いそうで、

でもなんとか千歳には着いて、

そのあとはあんまり憶えてないけど、

病院に着いて、

顔が見たい一心だったけど母は手術中で、

 

なにもできずに待合室のベンチに座っていたら

 

こよりがひょっこり現れました。

 

こよりは中2から高3までクラスも一緒ということもあって

同級生の中でも特別な存在です。

わたしとはいろんな点で正反対で、

気をつかいすぎなほど人のことを思いやれる子。

みんなこよりのことが大好きです。

 

もうずっとずっと気が狂いそうだったところに、

こよりが来てくれて、

わたしの横に座っていてくれて、

いつまでかかるかわからない母の手術の間

わたしの話し相手をしていてくれて、

 

長いもんだからいろんな話をして

北海道の「おせち大晦日に食べはじめちゃう問題」とか

おせちにきんぴらは入るか?とか

なぜかおせち話が白熱して

私はこの状況で笑いすらした。

 

こよりはあたりまえのように来てくれた。

恩着せがましくならないように

注意すらして、さりげなく。

 

こんなありがたい人を

わたしは中学の最高潮のバカ期に手に入れていたのかと。

 

母はその後、意識を取り戻さず

でも、数日病室でわたしとの時間を作ってくれて、

年が明けてから亡くなりました。

 

病院で付き添いをしている間も、

実家が無人で暖房もしていないと、

ボイラーが凍結して故障しちゃうからと

(北国あるあるです)

さのがストーブをつけにいってくれたり。

頭が全然回らないわたしの代わりに

さのはたくさん考えて動いてくれました。

 

さのはものすごく腕のいい美容師です。

さのが地元で美容室をやってくれている

恩恵といったら計り知れなくて、

 

わたしの母もさのに髪を切ってもらっていて、

わたしは知らない母の話をさのが

たくさん教えてくれたりもした。

 

そしてさのの人柄と包容力で

たくさんの同級生がさののところで

髪を切っているので、

不義理で年賀状もろくに出さないような

わたしでもこうしてみんなとつながって

いられるのは、全部さののおかげ。

 

さのはわたしより先にお母さんを亡くしています。

しかも自宅で闘病されていたお母さんのお世話を

働きながらずっと続けていたので、

精神的にも肉体的にもどれほど大変だったか。

 

いつかくるとはわかってはいても、

母を失うということはやはり強烈な体験で、

生まれてはじめて母がいない世界を見るときに、

それを共有できるさのがいてくれることで

どんなに助けられたかわかりません。

 

お葬式には

まみとあっけがきてくれました。

気を張っていたけど

ふたりの顔を見つけたときには

ただうれしかった。

 

実家がお隣同士の

美香ちゃんちのお母さんには

「本当に見事な最後だったね」

「見習いたいぐらい」と

声をかけてもらって、

どんなお悔やみの言葉をもらうより

うれしかった。

(本当に見事な最後だったのです)

 

埼玉の自宅に帰ってからは、

千夏子に再会して(お互い涙ぐみながら)、

母の話を聞いてもらって、

 

それからトニー!

トニーにも再会できて、どんなにうれしかったか。

 

それから、鼻かみティッシュの石田は

今では札幌ですてきなすてきなお花屋さんをやっていて、

わたしの母の一周忌には素晴らしいアレンジメントの

お花を作ってくれました。

 

さののお店でたくじに会えたのもうれしかったこと。

(かわいいふたりの子どもと一緒に!)

 

 

札幌ではもう初雪が降ったみたいですね。

 

 

その年初めて、

積もるほどの雪が夜のうちに降って、

見慣れた景色が一夜にして

白く変わるのを目撃する朝が

毎年あるものですが、

 

枯れた色の庭も、

それぞれの色の屋根も、

なにもかも全部が雪の光る白の色で

 

それは本当に

頬を張られるほどの

ハッとする美しさで、

 

何歳になって、

何回見ても、

慣れるということがありませんでした。

 

今でも、

雪より美しいものを

わたしは知りません。

 

雪が美しいのは

目には見えなくても

ひとつひとつの雪の結晶が美しいからです。

 

そんで、わたしの中学時代があんなに素晴らしかったのは

雪の結晶と同じように、ひとりひとりが

違う素晴らしさを発揮していたからなのだと思う。

 

ちょっと、うまくまとめようとしすぎか?

 

でもとにかく、

私たちは雪の中で育ちました。

 

ものすごく厳しくて、

ものすごく美しい雪の中で、

一緒に育ちました。

 

 

こぼれイクラよりも、あふれる愛をこめて

 

えの 

 

 

 ※無断で画像入れてもオッケーそうな人のところで切り取ってみたのだけど、大丈夫か?自分の写りのいい写真を選んだだろうとつっこまれたら、それは否めません。

 

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