Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

自分の「物語」の向こう側へ

 

自分という存在の全部を

100とすると、

 

肉体生を体験している

自分というのは

1に満たないかも

しれないくらいで

 

普段は知覚していない

自分という領域が

膨大にあることに

氣づいていくと、

 

自分が宇宙

そのものであること、

 

途方もない大きな

存在であることを、

 

思い出すことが

できるのかと

思うのですが、

 

それに完全にきがつくと

もう肉体ではないのだと

思いますから、

 

この貴重な体験も

分離のおかげさま

なんだなあって

思いますし、

 

分離があるからこそ、

多様性が生まれて

豊かな体験がある。

 

好きなプロセスで

好きな段階を

体験しているだけなんだなって。

 

(分離も統合も優劣ではない)

 

 

これまでの地球では

なにか重荷を抱えて

自分をアンカーすることが

どうしても必要で、

 

(それがないと貴重なここでの体験ができない)

 

 

おそれ、不安、罪悪感、無価値感、プライド、劣等感、

モリモリにそれぞれが抱えてきたのだと思います。

 

修学旅行の持ち物リスト的に

これまでの地球では

絶対に必要だったというか。


(並木さんがわたしたちには

罪悪感はデフォルトで埋め込まれている

というお話をされていて、

本当に深く納得しました)

 

今、

わたしたちの旅行の行き先は

5次元に向かっているから、

 

当然持ち物リストは

大幅に変わっているのだと

思います。

 

そして、

今回の荷物の準備は

本当はとっても簡単です。

 

「ネガティブは全部捨てる」

ことだから。

 

あらたに準備する

荷物はないんです。

 

 

わたしたちは

自分が浮上してしまわないように

地上にアンカーするために

ネガティブな周波数を

錨として使っただけで、

 

これは本当の自分でも

なんでもない。

 

外せば外すほど

次元上昇の波に

勝手に乗ります。

 

アセンションって

元に戻るだけだよね?って

きもちがずっとあります)

 

 

では、

どうしてこの

荷物の手放しにみんな

それぞれに苦しむのか。

 

(自由を渇望してきた鳥が

出口の開いた鳥かごから

飛び立とうとしないのは

どうしてなのか)

 

地球旅行に来たときは

そのときの自分には

意味のわからない

「ネガティブ」という持ち物を

いっぱい詰め込んだけど、

 

長きに渡ってこのルールと

制限の中でやってきた中で、

 

それぞれに自分の物語を

肥大させてきた。

 

 

わたしたちが執着しているのは

そのネガティブを含んだ

「自分の物語」なのだと

思っています。

 

 

完全に幻想のカーテンな

わけですが、

 

 

このカーテンの向こうに

強い光を感じてもいるから

開けたいきもちも

盛りあがっているのですが、

 

このストーリーが

望むかたちでエンディングを

迎えるのをどうしても

待ち続けてしまったり、

 

誰かにこの物語を

共有してほしい!

と語り続けてしまったり、

 

先に進みたいけど

 

できたら

ライナスの毛布的に

カーテンの切れ端もったまま

進みたいといいうか、

 

その執着が足止めと

なってしまうなあと

感じられています。

(もちろん自分のこととしても)

 

とはいえ、

 

この物語がそれぞれにとって

とても大切なことも

よくわかるのです。

 

ある意味地球での

自分の作品的な。

 

(時間の観念も強かったから

長くやってきた感もすごいですし)

 

 

たとえば

この制限から抜けた次元で

「地球って相当やばかったでしょ?」

って言われたら、

 

わたしは

「そんなことはない」

「すばらしいところだった

うつくしいところだった」

と伝えたいです。

 

なんというか

たっちゃんの欠点は

いっぱい知ってるけど、

知らない人が

たっちゃんの悪口

言わないでくれる!

みたいな南ちゃんのきもち。

 

(↑あはは! 自分でウケました)

 

これまでの地球が

つっこみどころ満載の

だとしても、

 

その中で

本当に信じられない

美しさを表現してきた人は

いっぱいいるって思っている。

 

だからこそ、

その物語に

執着するきもちも

すごくわかるけど、

 

でも今はもう

それを終えて

進むときだから、

 

ちゃんと自分が納得して

物語の鎖を断ち切る

儀式があると

いいのかなって思う。

 

 

この自分がはまってしまっている

「トラップ」となっている部分は

 

自分にとっては

ギクッとなるというか

ヒリッとするところだから、

 

向き合うのが

とてもつらく

感じられるかと

思うのですが、

 

わたし自身も

過去に受けたセッションで

大きな効果を感じたものは

 

この自分が引っかかっている

物語の幻想のカーテンに

気づかせてもらえるような

ものだったことからも、

 

やはりこの部分は

解放の要と感じています。

 

 

自分をアンカーしてきた

重い荷物の整理ということでは

今はもう、

のんびり向き合える時期は

過ぎてしまっていて、

 

イメージ的には

ナウシカの映画で

飛べなくなった飛行機から

ミトじいたちが

飛行機の中の荷物を

かたっぱしから

落としているような感じで、

ナウシカ劇場公開してますね!)

 

自分の中に

ネガティブがあるのなら

細かく精査するよりも

もう片っ端から落とす!

 

(クリーニング、統合、

各種ボディケアなんでもいい。

自分を軽くするしかない)

 

自分を停滞させる鎖が

繋がっているのなら

片っ端から切る!

 

今はこれが

急務かなって

思っています。

 

 

 

軽やかなものはより軽やかに

 

重いものはより重く

 

 

今はそういうときなのだということ。

これからさらに加速するのだということ。

 

 

わたしにも

他でもなく、

 

「こればかりは」と、

開けられずにいた

幻想のカーテン的

物語があったなあと

感じています。

 

でも、その物語を使って

隠された記憶や

隠された本当のきもちが

引き出されました。

 

おかげでわたしはとても

軽量化されたと感じています。

 

 

物語は自分が目覚めるために

ものすごく「使える」のです。

 

(自分という馬が走ってくれる

なにかなんですねえ)

 

 

最近いちばんの娯楽が

瞑想になって

いたりするのですが、

 

自分全体からしたら

1未満かもしれない

肉体の体験を

本当の自分が

たのしんでいることが

 

なんとなくでも

感じられますし、

 

クリアになればなるほど

自分がいちばん

おもしろくなってくる

ものなのかなって思う。

自分でいられるなら

なにがあっても

大丈夫って思える。

 

自分とはちがうバージョンで

それを体験している

他者を見るのも

同じくらいおもしろいですしね。

 

 

今までとはちがう

作品を見せ合える時期が

いよいよはじまっているの

だなあって。

 

 

 

あらたにスタートした

メールセッションについて、

 

一定期間ナビゲートと

フォローをつづけられるところが

ありそうでなかった方法に思えて、

とても可能性を感じています。

 

メールがスタートすると

栓が抜けるときがあって、

 

栓が抜けると

エネルギーが動き出して、

 

自分がはまっている「罠」に

向き合う場面もあったりもして、

 

そこに自分がきがつくと

セルフセッションのように

解放が起こっていく……

 

という流れを感じています。

 

 

それぞれに

見晴らしのいい景色に

抜けていくようなコースを

伴走させていたくことは

わたしにとっても

大きなよろこびとなっています。

 

 

2週間のメールラン

ご一緒いただいたみなさま

ありがとうございました!

 

よいタイミングに

ご感想などシェアさせて

いただけたらと思っています。

 

 

メールセッション

次期募集につきましては

 

来週後半のご案内を

予定しております。

 

最適なタイミングで

あらたなご縁をいただけますこと

たのしみにしております!

 

 http://healingroom3.com

 

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本棚から飛び出していて、

ふと氣が向いて読みはじめたら、

一日で読み切りました。

読みはじめて2ページ目くらいから

あり得ないくらい

ずっと涙が流れ続けた。

 

地球が

すばらしいところだった

うつくしいところだったと

言い切れるひとつの要素として

 

女性のすばらしさが

あったと思います。

 

超越的に女性が女性を

支え、救い、

癒やしてきたところを

 

わたしも何度も

体験してきたんじゃない

かなって思っている。

 

この小説は

 

ピエタ慈善院という

実在した場所を舞台に

実際にピエタで音楽指導をした

ヴィヴァルディなども登場して

史実を元に描かれています。

 

わたしにとっては

ここにいた氣がするほど

完全に実話。

 

孤児として育ったエミーリアと

 

貴族のヴェロニカと

 

コルディジャーナという

高級娼婦のクラウディア

 

それぞれに自分の運命を

受け入れて生きた女性たちが

 

立場はちがえど

出合いを喜び合い

支え合う姿が本当に

感動的で、

 

誰がどの立場に

入れ替わっても

同じように感じるだろう

というような

セリフもありましたが、

 

本当に女性が女性を

癒やしてきたと思う。

 

(今わたしは服部みれいさんの

声のメルマガのお手伝いをさせていただいていますが

みれいさんがつくられたコミュニティもまた

この時期の地球だからこその壮大な

インナーチャイルドと女性性の

癒やしの場なのだと感じています)

 

ピエタ』では

 

コルディジャーナ(高級娼婦)の

クラウディアさんの最後に

壮大な癒やを感じますし、

 

自身の高い志や

聡明さ、敏腕さを

活かすことなく

年老いた

貴族の娘のヴェロニカにも

カタルシスがあります。

 

自らも孤児で

その後も結婚することなく

ピエタで働きつづけた

エミーリアは

いちばんわたしの

記憶と重なる存在でしたが、

 

エミーリアにも

反復修正のような

別の人生があるのだと

思えてならなかったし、

 

自分の物語を

呪うのではなく

なんとかして

祝福することが

できるのならば、

 

自分の物語のカーテンは

開いて、

 

わたしたちは全員

光の方に進むのだと思う。

 

帯文がすばらしいです。

 

聖と俗、生と死、男と女、真実と虚構、絶望と希望、名声と孤独……

あらゆる対比がたくみに溶け合った

これぞまさに”調和の霊感”!

 

 

(調和の霊感は物語の中に出てくるヴィヴァルディの作品)