ヤドカリは貝には執着しない/幾星霜を超え次の物語へ!
ヤドカリで考えると
わかりやすいんだな、
って思いました。
大きな時代の転換期を迎えている
今のわたしたちのお話です。
ミナミAアシュタールさんの動画では
「絶対無限の存在」と呼んでいたりしますが、
(超次元ライブの最新シリーズの切り込み方がすごい!)
わたしたちの本体は
エネルギーというか
意識というか
物質的なこの肉体ではないため、
死んでも消えもしなければ
忘れもしないというか、
(むしろ全部思い出せる)
死ということも
ひとつの変化のかたちと思うと、
あらゆる変化は本当は
おそれるものでもないのかと思う。
(まだまだいろんなことに
こころが揺れたりしますが
この理屈には心底納得しています)
自分がヤドカリだとしたら
貝の部分って
自分の環境やセルフイメージ
みたいな部分かなって思って、
本当はいつでも交換可能というか
選択肢はたくさんあるはずなのに、
貝の部分をこそ自分って
思い込んでしまったり、
居心地の悪さに
もう嫌気がさしている貝でも
依存から抜けられずに
出られないということも
大いにある。
人間がやどかりほど
気軽に自分の環境や
セルフイメージを更新できないのは
それぞれの物語があるからで、
その物語の中で
古い貝に
強い執着を感じるように
なってしまっていたり、
幻想の罪悪感から
その貝に自分を
閉じ込めて罰して
しまっているかもしれない。
この自分の物語への
入り込み具合によって、
お引っ越しの軽快さ困難さの
差が出てきそうだなと。
(どっぷり入り込んだこころ当たりが
あるからこそ思います……)
いずれにしても
すべては100%自分の選択です。
ヤドカリのお引っ越しって
本人の自由意志ですよね。
誰かがやってくれるものではないし、
タイミングも自分で決める。
わたしたちのエネルギーは
どんどん変容していくため、
貝もその時その時の自分に
フィットするものにどんどん
お引っ越ししていくのが
自然なのかと思えます。
今までは、
似た貝に移行しながら
徐々にいちばん望むような貝に
たどり着くような感じのイメージ
だったように思うのですが、
これからは
いっきにジャンプ!
みたいなお引っ越しが
じゃんじゃん起こっていくのかな?
とも感じられます。
今日書きたかったのは
ここからになってくるのですが、
現在の自分にフィットする
ピカピカで快適なあたらしい貝に
お引っ越しをしたとしたとしても、
単純によろこんだり
受け入れたりができず、
「以前の貝へのホームシック」
みたいになることって
あるなあって思うのです。
(これぞ、
エゴの声というか、
記憶の声というか、
鬼の罠というか
ひとことでいうと
「おためし」ですね)
実は
このヤドカリのお引っ越し的な
感覚を今わたしも感じていて、
みていただいたことが
きっかけだったのですが、
今というときは
誰にとってもそういうとき
なのかと思いますが、
わたしもまさに
「生きながら生まれ変わっている」
とのことで、
ホロスコープから見る
今までの流れは
ちゃんと己を信じて
進んできたやん自分!
みたいな思いもありましたが、
より自己統合を進めるためにも
浮上したことがあって、
わたしは太陽星座が魚座ということもあって
ずっと霊性の探求に興味が偏っていて、
肉体性にあまり向き合ってきませんでした。
外見的な部分は特に苦手意識があります。
(メイクとかファッションとか)
ここのバランスというか
循環をよくすることというか
「霊性と肉体性の調和」
ということが
今後のテーマとして
はっきり出てきました。
実は過去に受けたセッションでも
何度も出てきたテーマでもあって、
以前電車で隣り合わせた方が持っていた本から
このことについて熱く語ることになったり、
(知らない人と「霊性と肉体性の調和」のお話(笑)
不思議ですてきな体験だった!)
強い導きは感じていたのですが、
いよいよ手をつけるときという感じです。
先日ケルマデックさんのセッションでは
「おしゃべりセラピスト」を
命名していただいたのですが、
占星術のセッションの中でも
あらたなキャッチフレーズをいただいて、
なんだかそれは
ヤドカリ的にはすごくすてきな貝への
お引っ越しになっていきそうで、
今までのわたしが
選んできたような、
地味だけど居心地最高!
みたいな貝とは
ひと味もふた味も
ちがう貝というか、
しっくりくるかというと、
まだそうではないけれど、
でももう、
四の五のいわずに
次の貝に引っ越しせな!
ってなって、
(中途半端に関西弁混じりなのは
町田康さんが登場する動画を
最近よく観ているせいです。
おまけのコーナーで語りたいのですが
町田康さんによる現代語訳の
こぶとりじいさんがやばかった!)
でもいざ
見た目も華やかそうな貝に
お引っ越しを決めてみると、
前の貝だって
いいところあったやん……
みたいな気持ちが
湧いてきたりもして、
ヤドカリがホームシックに
なったりするんだなって。
感覚としては
自分の前の物語が終了していないのに
次の物語がはじまっちゃう感じというか、
今まで見ていた
映画のラスト観てないまま、
次の映画はじまっちゃう、
みたいな感じがして、
「ちょっとまって!
あんなに伏線だらけだったのに???」
って
なっちゃう感じはあるのですが、
本当にこれは
単純におためし
なのだと思います。
たとえばではありますが、
前の映画が愛憎渦巻く
ヒューマンドラマみたいな感じで、
あたらしくはじまった映画が
爆笑&大好きなスターだらけ!の
コメディみたいな感じだったとしたら、
これからの自分は
どっちが観たい?
という選択があるだけだと
思うのですが、
ここで
いや決して観ていて
たのしいわけではないけど、
あの悪役がぎゃふんと言って
大団円となったところを
観るまでは愛憎劇で……
みたいな執着で
愛憎劇を見続けることは
そろそろ危険かなと感じます。
(悪役に見える人も
実は自分の反映として
その役をやってくれている
存在というだけですもんね)
いわゆる二極化という表現は
現在の状況を
すごくわかりやすく
簡略化したものかと思いますが
愛憎劇とコメディの分かれ道は
最初は50センチ、1メートルと
それほど離れていなくて
すぐにあちらに移れるような
距離だったとしても、
物語にはまって道を進み続けている場合
いつの間にかあちらの道が見えないほどに
離れていたりするのかなって。
わたしの場合、今までの物語に
悪役というのもいなったのですが、
それでも、物語の流れというのはあって、
「いきなりちょっとまって!」的な
思いも湧いてきたりしたのですが、
(いきなり次の物語がはじまると
今までの自分ってなんなんだっけ?
とポカーンってなるところはある)
ごちゃごちゃ考えずに
あたらしい映画を
見はじめることにしました。
鬼滅の刃も
最終巻が出て、
おまけとして
登場人物の子孫が登場する
現代が描かれた作品が載っていましたが、
物語を閉じてこそ
次の物語がはじまる。
鬼滅には大団円が
あったじゃないと
いったらそうかもしれないけど、
でもたくさんの死もあって、
そこから悲しみやうらみの
物語に居続けるという選択も
ある中で、
そのタイムラインは選んでいない
ということになりますよね。
ヤドカリは居心地が悪いなら
結末にこだわらずに
違う貝を選べばいい。
今だ!というタイミングは
実は絶対自分でわかるはず
とも思う。
前の映画の結末にこだわらずに
物語を乗り換えられた場合、
実はあたらしい映画で
前の映画で伏線的に
放置されたことも、
昇華されるように
思えています。
と!いうわけで、
わたしはうつくしく快適な貝へ
引っ越したヤドカリとなり、
これからは
数ヶ月ひとり合宿というか、
ひとりプロジェクトを続けつつ、
あたらしい貝と自分を
しっくりさせていきたいと
思っています。
どういうかたちで
発信していくことになるかは
まだ手探りですが、
今後は
おしゃべりセラピスト
エ〜ンド
ボディワーク的美容的なにか
みたいなことをやっていく予定です!
それがわたしの
グレートコンジャンクションなのでは
ってことで、わたしもそう思えました!
風の時代を
ぶっちぎってまいりたいです!
最終巻のタイトル
「幾星霜を煌めく命」
幾星霜を超えたからこそ、
わたしたちはもうあたらしい時空をえらぶとき!
そして……
ここからはおまけコーナー!
読まなくて大丈夫なやつです!
細野さんのラジオのゲストが
青葉市子ちゃんで
(新譜「アダンの風」すごそうです!)
以前、踊ってばかりの国の下津くんと
青葉市子ちゃんのツーマン
みたなあって思ってたら、
(ご一緒したあいあいはおげんきかしら???)
YouTube見てたら
どんと生誕祭なるライブに
下津くんが出ていて、
さちほさんがベースを弾いていたのにも
さちほさんがラキタくんと共演していたことにも感動した。
このライブを東京でやったときは
町田康さんもご登場だったようなのですが、
その町田康さんが
熱海でご近所さんという
NOKKOさんのラジオで
スピンクのお話をしてたのも
めっちゃグッときて、
どんとがつくった最後にひとつという名曲はNOKKOさんにつくった曲だったと思います。
【NOKKOのオカエリ ただいま。】2020年3月14日(ゲスト:町田康さん!) - YouTube
10代に好きだった方たちや
あたらしく好きになった人が
こうしてつながっていることに
感動するのですが、
最終的にたどり着いたのは
こちら……
(笑必至)町田康による「こぶとりじいさん」創作現代語訳 朗読 - YouTube
宇多丸氏が涙を流して笑ったという
「こぶとりじいさん」の現代語訳を朗読しています。
爆笑です!
レンタルCDでせっせと「INU」(町田康さんが町田町蔵だった時代のバンド)などを借りて聴いていた10代の自分と(札幌郊外の住宅街なのになぜかINUとか置いてくれていたそのレンタルCD屋、わたしがあまりにもよく通うため、のちにスカウトされてバイトすることに)もうすぐ50になる自分はなにも変わっていないと思う。ヤドカリがいくら貝を引っ越してもかわらない部分は、貝じゃない本体の部分で、自分軸はいつもここにある。