Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

自分のちからを自分のために/対立ではない問題解決法

 

ノーマンと再会したところで

やっと一息つけました……。

 

なんのお話かといいますと、

 

約束のネバーランド」。

 

やばすぎます!

ケルマさんのいう

虚数世界というか、

 

隠されている構造が

こんな風に描かれているとは……、

カズオイシグロの『わたしを離さないで』

を彷彿とさせます)

 

今日はなんのブログか

わからないくらい、

約束のネバーランドのことばかり

書いてしまいそうです。

 

漫画は未読のまま、

アニメを見はじめたのですが、

(あんまりよく知らなかったのに

この作品をみるべし!という

衝動が急につきあげた)


設定が衝撃的すぎて、

日常生活が手につかないほどで、

 

(ジャンプで連載されていたということは

あのお話を子どもたちが読んでいたのですよね!?

おどろきです)

 

アニメのシーズン1は

もう耐えられなくて、

ほぼスキップで最後まで

流れだけ把握したのですが、

シーズン2からがなにやら

すごいです。

 

物語はずいぶん

違うかもしれませんが、

約束のネバーランドにも

鬼滅の刃同様

鬼が登場します。

 

そして、

鬼滅の刃同様、

鬼にも事情があること、

鬼の手先となり

非情に思える人も

主人公たちと同じ立場から

そうなるしかなくなっていったことが

描かれてもいて、

 

であるならば、

本当はみんな同じ立場とも

いえるはずなのに、

 

憎しみの連鎖と

まちがった認識から、

不幸な対立構造が固着

してしまっていること、

 

また、

幻想の欠乏感による操作などで

ピラミッド型の支配構造を

つくりだすからくりなども


鬼の社会を通して

描かれていて、

うなりました。

 

エマたちが解放された姿を

見られるまでは

ソワソワしてならないため、

(眠っていていいのか!

みたいな思いになる)

 

漫画の方を全巻入手して、

約束のネバーランド』のワークを

おこなう予定です。

 

映画「マトリックス」のシリーズや

この『約束のネバーランド

あとは、

観ていないのですが

ジム・キャリー主演の

トゥルーマンショー』など、

 

多少の不自由がありながらも、

そこそこ安心して生きていた世界は

実は大きく柵でかこまれたような、

人為的な世界だった!

という設定の映画などに

思いをめぐらせます。

 

そこで暮らしていると、

真実がわからない構造になっていたり、

自分のほんとうのちからを奪われてしまう。

 

これはフィクションのようでいて、

メタフィクションというか、

(ほとんどフィクションを

現実と思って生きていると

考えると)

 

わたしたちにも

目にみえない幻想の檻は

どうやら確かにありそうで、

 

なんだかわからないように

複雑になってしまっているようで、

実はすべてのちからは自分がもっていた

ということだから、

そのことを思い出させてくれるような

たくさんのメッセージが

あるなあと感じますし、

 

約束のネバーランド

本の中の物語のかたちで

たくさんの真実の情報が

届けられていて、

そのおかげでエマたちが

脱出することができたように!)

 

 『約束のネバーランド

まだ途中なのですが、

とっても大切だなと思った

ポイントがあって、

 

ノーマンと再会して、

(ノーマンって誰!? かもしれないのですが、

わたしにはもはやノーマンは実在するため

思い入れおゆるしください)

 

離ればなれだった間、

ノーマンと行動をともにしていた、

仲間たちは、

 

同じ人間であるけれど、 

鬼を敵視してしまっていることで

完全に鬼化してしまっていて、

立場を変えて

同じような存在に

なってしまっているようすが

描かれていたシーンでした。

 

対立の構造の中で

どう進んだとしても、

どちらにとっても不幸な

連鎖から抜けられない。

 

鬼もまたわたしたちと

まったく同じく、

目覚めた存在は滅ぼされ、

愚かに、対立的に生きるしかないように

されているのです。

 

(数日約束のネバーランド

世界で生きているので、

だんだん一人称で

語りはじめました(笑))

 

わるいのは鬼じゃない。

構造だから、

 

相手を変えようとしなくても

構造が変わればいい。

 

そして、

今までの構造をつくってきた

存在を敵視することも

トラップと感じます。

 

敵視することは

その相手にフォーカスすることで

その相手にエネルギーを注ぐことだからです。

 

わたしたちがフォーカスすること、

エネルギーを注ぐことは、

 

本来の自分のちからをとりもどして、

それを自分たちのよろこびのために

使うことだけなのだと思います。

 

はっきりいって、

仕組みを変えるまでは

それは大仕事になると思われるため、

「今までよくも〜!」みたいな

意味のないことに

エネルギーを注いでいる

場合ではないと感じます。

 

わたしたちがエネルギーを自ら

差し出す構造がありましたが、

そのことにきがついた人から

やめたらいいだけで、

 

「今までよくも〜!」

みたいのは本当にいらないと思います。

 

先日観た

『すばらしき世界』という映画でも、

 

刑務所を出たけれど、

外でも塀のない刑務所のような世界が

広がっている現実が描かれていました。

 

様々な立場の方が

描かれてもいましたが、

 

誰がいいでもわるいでもなく、

現代の構造がひどすぎるのだ

ということを感じます。

 

誰がわるい、

誰が変われば、

という発想で考えると

たちまちトラップに

はまるのだと思います。

 

 

ママもシスターも

エマたちと同じ立場の子どもでした。

誰が責められるのでしょう。


(たびたびすいません。

今完全に約束のネバーランドの中に

住んでいます……)

 

わるいのは構造なのだということ、

鬼も救うような世界の変えかたがあること、

エマたちが今わたしに教えてくれています!

 

本日は泣きながら終了です!

 

 

なんの人かますますよくわかりませんが、

セラピストのお仕事をしています!

(忘れないで!(笑))

 

ついにたどりついた感のある

「おしゃべりセラピー」で

ご縁をいただいていますこと、

本当にしあわせに感じています!

 

オンラインセッションのご案内はこちらです。

 

 

http://healingroom3.com

 

 

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全巻大人買い予定。