Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

ツールとしての「物語」

感慨深いこと

目白押しデイズ。

 

短く終えられる

気がしませんので、

 

予告ホームランならぬ

予告縦スクロールを

宣言してから

はじめたいです。

 

別の窓からみる

インナーチャイルド

に展開する予定。

 

 

先日1年ぶりに

前の職場を

訪れる機会が

ありました。

 

現在は規模も大きくなって、

方針もずいぶん変わって

きているのですが、

 

わたしがいた頃の

その会社は社長以外は

ほぼ100%母さんたち

(お子さんのいる地元の主婦たち)

という場所で、

 

地域の主婦の雇用を通して

子どもたちの支援をという

意図がありながらも、

 

主婦たちが大変に

コストパフォーマンスの

高い労働力だということが

メインの理由だったと

思われ、

 

この職場で働いた

6年間、

 

みなさんの能力の高さに

ずっと感動しっぱなし

でした。

 

はじめて振られた仕事でも

とっさの工夫で

最短で最善に

行える方法を

臨機応変に考えられるし、

 

誰かがもっといい

アイディアを出したら

こだわらずに

どんどん採用するし、

 

誰と誰がチームとなっても

調和的にそれが

行われる様子は

 

他のどこの職場でも

見たことがなかった。

 

 

なんならみなさん

出勤前に洗濯機を

3回くらい回して、

 

弁当も3個くらい

作ってから

出勤しているような

方々だから、

 

むしろ出勤前と帰宅後が

彼女たちの仕事の本番で

 

さっさと帰ることが

みんなの一致する

希望であることも

調和と効率の良さを

生み出していたとも

思うけど、

 

あんなに働く人たちを

後にも先にも

見たことがない。

 

規模が大きくなるにつれて、

マニュアル化が進んで、

 

わたしがいつも感動していた

その場その場でのみなさんの

クリエイティブな発想を

試すことができなくなって

しまったことが

本当に残念だった。

 

この職場が完全に

母さんたちの集団

だったということに

わたしはずいぶん

助けられてきて、

 

入った当時は

「あなたは子どもがいちばん

小さいから早く帰りなさい!」

って早く返してもらったり、

(どこに何歳の子がいるのかはだいたいみんなの頭に入っている)

 

北海道の実家の

父が亡くなったときも、

母が亡くなったときも、

 

ずいぶんと長くお休み

させてもらったけど、

 

すべてを終えて

職場にもどると、

 

ベテランの方が

廊下ですれ違いざまに

「よくがんばりました」

とだけ軽く声をかけてくれたり、

 

(どんなお悔やみよりうれしかった)

 

また別の方に

わたしが長くお休み

してしまったこと

お詫びしようとしたら、

 

「松井さんが帰ってきてくれただけでいいから」

って言われたり。

 

(これほどの殺し文句があるでしょうか…)

 

なんならお孫さんも

いるような方も

複数いましたから、

 

(「炊きたてのごはんがまぶしくなる」等、老眼ネタが鉄板。聞いていたおかげで老眼が歓迎できている)

 

生んで育てて見おくってという

仕事がどんなものなのか

みんなもうよーくわかっていて、

 

小学校低学年の

娘がいたころの

わたしにも、

 

親を見送ったあとの

わたしにも、

 

感情の深い部分を理解した

対応をしてくれました。

 

(この職場が調和的であったことのもうひとつの大きな理由がお昼当番制でみんなが作ったごはんを食べていたことによる「その人の作ったものを食べると自ずと調和してしまう現象」だったと思うのですが、ここに触れると、一晩かけて読んでもらう量になりそうなので、泣く泣く端折ります)

 

そんな、

思い出深すぎる

職場に、

 

1年ぶりに顔を出す

ことになったのは、

 

その会社の商品を

受け取るためで

(いつも行っていた直営店が都合により休業中のため)

 

IHのお仕事では

全然違う時間を

過ごしてきた1年だった

こともあって、

 

改めて振り返る思いが

いろいろこみ上げて

きたけど、

 

勤務時間中はけっこう

厳しい職場なので、

 

ふらっと現れて

みなさんに会えることも

期待していなかったのに、

 

その日出勤だった人は

みんな顔を見せに

出てきてくれて、

 

わたしたちは本当に

かけがえのない時間を

一緒に過ごさせてもらった

のだと思うから、

 

言葉に代えがたい

絆があるって

感じていて、

 

まるで前日も会って

いたかのように

わたしを迎えてくれた

みなさんのようすに、

 

それがわたしの

片思いでもなかった

のだなって、

 

本当に胸がいっぱいに

なりました。

 

 

 

さらに、

この翌日は

 

久々に娘の中学校に。

修学旅行の説明会がありました。

 

前日の元職場に

引き続いての、

 

母さん業界

チューニング。

 

改めての発見を

たくさんもらった。

 

 

以前の職場だけならず

 

わたしは実は

ご近所にも

恵まれていて、

 

そもそも

ママ友などいない

わたしでも

必要な情報には

困らなかった。

 

運動会なども

一回も場所取りとか

したことないのだけど、

 

毎年ご近所さんが

うちの場所も一緒に

とってくれてて、

 

家の番地の並びと

同じじゃない?!

みたいな、

 

見慣れた顔が並ぶ中で

6年間お弁当を食べた。

 

(とはいえベタベタした

おつきあいは皆無でもある)

 

 

基準がわからないながら

普段相当牧歌的に母さんを

やらせてもらっている

のだと思うので

 

今年受験生ともなる娘の

同級生のお母さんたちが

ずらりと並ぶ保護者会に

ひさびさに身が縮みましたが、

(娘にもうしわけないくらい受験生の親の意識がわたしにない…)

 

お母さんたちの

立ち話みたいのに

久々に参加してみて、

思いましたのは、

 

前の職場のみなさんも

そうでしたが、

 

家事を放棄して

今これを書いている

わたしなどが

何ももうしあげる

ことがないほど、

 

みんなそれぞれに

母さん業に奮闘していて、

 

それぞれに

これがよきことと

信じたことを

生きていて、

 

でもそこは

母さんといえども

未熟な存在でもあって、

 

それぞれが

ただそのテーマを

生きてるだけなのだ

ということ。

 

心理学の概念で

「三角形のドラマ」

というものがあります。

 

迫害者

犠牲者

救済者

 

という3つの役割分担によって

ドラマのパターンができてしまう

というものなのですが、

 

たとえば

 

親の影響でなんらかの

抑圧的な設定のまま

生きている人を

「犠牲者」とすると、

 

ネガティブな影響を

あたえた親が

「迫害者」の役となり、

 

カウンセラー等が「救済者」

の役となり、

 

ドラマが成立してしまうと

いうもので、

 

ドラマの中では

 

犠牲者は犠牲者で

いることが手放せなくなるし、

 

救済者は依存を生んだりする。

 

三角形の内側には

非難や痛みや罪悪感

などでいっぱいとなる。

 

 

実はバージョンを変えて

よくあるドラマでもあると

思うのですが、

 

ひとつの役からの視点で

そのドラマは生まれていて、

 

そもそも三角形は本当はない。

 

 

2日間にわたって

集中的に

母さん業界に

身を浸してみて

思うのは、

 

親もまた大いに

傷のある存在で、

 

親とはいえ未熟に

その時その時の

テーマをただ

生きているのだ

ということ。

 

 

たとえば

 

立ち話で、

 

「いい話を聞いたことがないから

あの人とは関わらないほうがいい」

 

と言われていたお母さんと、

そう言っていたお母さんの

 

どちらにも

わたしはひそかに好感を

持って聞いていた。

 

 

解説すると、

 

そう言っていたお母さんは

 

役員や地域の仕事も厭わず

やってきた方で

とても常識的な忠告として

その発言をした。

 

そう言われていたお母さんは

 (もちろんその場にはいませんが)


いろいろルールを逸脱して

しまうのは確かのようで、

三角形のドラマの

迫害者的の役どころのような

強烈な話も中にはありましたが、

 

彼女は彼女のテーマを

生きているんだなって

思ったし、

 

わたしはただ

それぞれに母さんを

がんばってるんだな

って思えた。

 

(何が言いたいのかというと、迫害者などいないということをしみじみ見せてもらってような時間だったということ…)

 

インナーチャイルドケアの

お話をさせていただくとき、

 

どんなに大切な存在で

あっても

親の問題を

子どもがなんとか

することはできなくて、

 

でも

親のいろいろな問題を

自分がどうしたら

少しでもよくなるのかって

考えて子どもはふるまうし、

 

その問題をどうにもできない

自分を罰しもする。

 

それをデフォルト設定として

自分を形成することで、

 

大人になった今も

抑圧的な設定、

または自分を

罰するほどの設定が

生きてしまっているから、

 

傷のお手当と

設定の解除が

いかなる場合でも最優先で、

 

親の問題とは

切り分けることが

大切だということを

お伝えします。

 

◎切り分け

◎お手当

◎解除

 

インチャのワークは

実はシンプルだと

感じていますが、

 

解除が起こるためには

本人が深いところで

確信することが必要で、

(IHではそのために

くりかえし宣言する)

 

わたしが

セッションの中で

 

それぞれのインチャのストーリーを

ときに熱すぎるほどに

解説する場面があるのは、

 

ご自身のストーリーを

客観的に理解することが

その深い部分での

確信を助けてくれる

からです。

 

 

誰かの主観があるだけで

 

ドラマ、または

ストーリーは

実はないのだけど、

 

(「本当はなにも起こっていないの!」byうちの犬)

 

わたしたちは

もう少し物語の

力を借りて

進化するのだとも

思っていて、

 

わたしのセッションでは

 

意外とこの「物語」が

作用しているのだとも

思っている。

 

http://healingroom3.com

  

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犬のお散歩コースの田んぼにもう水が入っていた。手前に緑色のオーブありますね。

 

大好きだった近所の大きな木が切られてショックだったよ。タントリックツインみたいに2本が1本みたいになっていた木だったの。相当落ち込みました…(オーブに聞いてもらっている)

 

 

元気が出る話題といえば、京急120周年でしょうか(笑)

 

タモリ倶楽部の2週にわたる特集が熱かったです。

 

特に京急ビンゴ(笑)

すれ違った車両がどれかでビンゴをすすめるのですが、

1編成しか存在しないという2000系(だったかな?)とすれ違ったり、珍しくないはずの800系となかなか遭遇しなかったり、でも最後の最後でコンプリートとなったり、終始昂揚しました。

 

京急が好きな人は音鉄というのですか?制御装置の音を聞き分けるのですが、あれ素敵ですね(笑)

「チョッパ型だね」とかさりげなくつぶやかれると、ときめくのかもしれません。いや、ときめかないかもしれません。

 

わたしは鉄道が好きなのではなくて 

鉄道が好きな人が好きなのですが、

 

なにが好きって、モテるとかモテないとか、何の役に立つかどうかとかを全く手放して、ただ目をキラキラとさせているからです。

あと、自分が「乗り鉄」なのか「撮り鉄」なのか「音鉄」なのかなど、自分のよろこびがどこにあるのかをよく理解しているからです。

 

これが何の役に立つからとか

これをしてるとイケてるように見えるからとか

 

そういうの全部手放して

 

みんな本当に好きなことを生きたらいいって

鉄道好きの人たちを見ているといつも思います。

  

https://www.youtube.com/watch?v=hDAJI7UNHAI

モノレールって鉄道じゃない(?)から邪道なのかもしれませんが、ヴィム・ヴェンダースの「都会のアリス」を見たときこのぶら下がる方式のモノレールにめっちゃ乗りたくなりました。

大船の方にありますよね???