Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

星のめぐりのめあて

 

4月14日(土)

 

呼吸ラボラトリー

アマミヤアンナさんの

レッスンにお招きいただいて、

 

インナーチャイルド

お話をさせていただきます。

 

くわしくはこちらを

 

呼吸で潜在意識を

きれいにすることと

 

インナーチャイルド

ケアをすることは

 

別の入口から

同じ目的地を

目指すような

ことだと思いますので、

 

深い部分で

みなさんとシェアできる

ものがあると感じています。

 

ご興味が引かれましたら

どうぞチェックしてみて

くださいね。

 

 

さてさて、

 

今週もIHセッションで

すばらしい時間を

いただいています。

 

おととい自宅のセッションルームには

アニマルコミュニケーターの方が

きてくださって、

 

うちの犬のことを

あれこれ相談させても

もらう場面もありました。

 

その方のセッションが

素晴らしかったのが、

(わたしがクライアントとして)

 

動物がわたしたちが

思うような動物ではないと

気づかせてもらえる

ようなものだったことと、

 

(犬は犬だってことがそのままで素晴らしくもあるのですが)

 

結局は家族である人間の

セッションになっていく

ところ。

 

うちの犬もっちゃんの

原因不明の全身のかゆみの相談を

させていただいたのですが、

 

(掻きこわして血が出ることも少なくない…)

 

いろいろひもとかれたことは、

 

もっちゃんはわたしと

まったく変わらないくらい、

 

わたしと同じ仕事を

するつもりであると

いうこと。

 

うちにクライアントさんが

いらっしゃると、

 

「自分のクライアントが来た」

って思ってるのですって(笑)

 

自分もその時間は

その方のためにある

って思ってるのに、

 

挨拶もさせてもらえない

ことが不満でならない(笑)

 

もっちゃんは人が大好きだから

一度セッションルームに

入れちゃうと

毎回入れると思って

大騒ぎになりそうだから、

 

しつけ的に最初から

絶対入れないように

していたのですが、

 

まさかそんな思いが

あったとは…

 

今後犬が苦手でない方には

ご挨拶だけでもさせて

もらおうかな。

 

とにかく

わたしに同調して

 

やる気いっぱい!

 

それにより

からだが

ヒートアップ!

 

それもかゆみの

一因となっているかも、

とのこと。

 

なるほどー。

 

 

これを聞いて

思い出されましたのは、

 

この前日に

アーユルヴェーダ

サロンで受けた

セッションのこと。

 

インド占星術

ホロスコープ

インドタロットの

リーディングを

受けたのですが、

 

タロットの真ん中に

出たカードが、

 

王子ラーマに

愛を証明するために

火に身を投じる

妃シーターのカードで、

 

その思いが熱すぎて、

シーターが火から

追い出されているところ

が描かれている。

 

火にも迷惑がられる

ほどのシーターの熱さ…

 

王子ラーマはめっちゃ

腰がひけてて(笑)

 

(インドタロットはストーリーが

相当ユニークです!)

 

いろいろな困難に

あった妃シーターに

疑いをかける王子ラーマ

ってどうなのよとか、

 

ドロドロカルマっぽい

感想もいろいろ抱きつつも、

 

火にも迷惑がられるほどの

あつ苦しさみたいなものが

わたしにはある気がして、 

 

そこをクリーニングせよ

というカードと受け止めました。

 

 

さらに繋がると

感じる出来事が、

 

先日、

喫茶店で友人と

過ごしていたとき、

 

向かいに座る友人の奥に

マコーレー・カルキンの

バックプリントのTシャツを

来た男性が座っていて

 

もう完全にわたしに

向いているわけなんです。

 

マコーレーが。

 

もう友人を通り超して

わたしの意識は

マコーレーに相当

持って行かれてて、

ホームアローンの頃よりもちょっと成長したマコーレーなの…)

 

なぜ今、そのTシャツ???

とかいろいろ脳が混乱して(笑)

 

わたしに異変を感じた

友人も振り返って、

 

マコーレーを確認し、

 

マコーレーの話題となり、

 

かねてから

子役というものの

インナーチャイルド

いかにズタズタかと

思っていたので、

 

(幼くあることを価値として大きく評価されてしまうと自分の成長のすべてはその価値を失っていくことのように感じてしまうだろうから)

 

でも友だちは

わたしがあまりにも

マコーレーに持って

行かれてる姿に、

 

吹き出しそうに

なっていたそうで、

 

「“ホームアローン”とかありえないでしょ?」

って友だちに言われて、

 

ホームアローンの意味に

わたしが表情をゆがめる姿に、

 

友だちは

「マジか!」って笑って、

 

でも、

わたしが今どれだけ

マコーレーの

ズタズタインチャに

同調したところで、

 

少しもマコーレーを

救わないよ!って

友だちは真剣に言った。

 

 

嘘みたいな話ですが、

 

この3日後くらいに、

地下鉄の通路を前から

走ってきた男の人が、

 

今度はホームアローンの頃の

マコーレー・カルキンの

Tシャツを着ていて(笑)

 

(走っているのでコートの前が開いてて、両手を頬にあてた有名なポーズのマコーレー・カルキンのイラストがドーンとわたしにせまってきた)

 

そんなに存在するものなのかと。

 

現代にマコーレー・カルキンの

Tシャツを着ている人が(笑)

 

 

このマコーレー現象、

 

さらに

インドタロットのリーディング、

 

もっちゃんの

全身のかゆかゆの原因、

 

という一連のことは、

 

わたしにおける

 

マコーレー・カルキンの

インチャにまで反応する

ケア欲。

 

火に飛び込む的どや感。

 

これらを手放すという

 

わたしのお題をわかりやすく

見せてくれたのだと思う。

 

 

インドタロットの

カードで

もうひとつ印象的だったのは、

 

舟に乗って向こう岸に

渡っている絵のカード。

 

ガンジス川のように

大きな川だから

向こう岸につくには

時間がかかる。

 

その間は静かに

乗っていましょう

というもの。

 

なるほど…、

と納得したのが、

 

今のわたしは

 

向こう岸の予感が

もうすごすぎて、

(これは占星術的にも)

 

舟の上でわっちゃわちゃ

しまくってたこと。

 

わちゃわちゃすれば

するほど舟が揺れるだけで

岸に着くのも遅くなるだけなのに。

 

もうひとつ、

 

いつからか去来している

自分でも説明できないような

虚無感みたいなものの理由も

占星術的に腑に落ちました。

 

ホロスコープでは

8月末に抜けるって!

 

めっちゃうれしい!

 

もうずっとこうなのかと思った…

 

まとめると

 

今はわちゃわちゃせずに

おとなしく舟に乗る!

 

あと、

火に飛び込まなくていい(笑)

 

向こう岸をお楽しみに!

 

という時期に

自分がいるのだ

ということを

整理できた。

 

ホロスコープで自分を

理解することは

 

無用な苦労や摩擦を

省いてくれると感じます。

 

あまりにも膨大な

占星術の叡智を

わたしが勉強することは

なさそうですが、

 

星のめぐりのめあてに

沿って生きてたら、

 

(わたしの場合嗅覚的にそれを感じてになりますが)

 

すべてが最高最善に

整っていくのだと思う。

 

 

5月29日(火)

サイドバーンで行うイベントでは

 

昼の部、夜の部として

いろいろな催しを計画中なのですが、

 

(どちらかだけでも、通してでもご参加可能)

 

インド占星術のお話、

 

それから

 

アニマルリーディングを通して知る自分といったお話も

それぞれの専門家にしていただこうと思っています。

 

 

どうぞお楽しみに!

 

 

http://healingroom3.com

 

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昨日は喬太郎師匠が地元のホールに!(念のための注意書きとして、以下落語の話しか出てきません)

駅ビルからの道中のことなど、地元をめっちゃいじってもらってうれしかったのですが、好きに語っているようで、みんなの頭の中にその場所がありありと思い描けるような、描写だったし、話す順番にも工夫があるのだと感じて、軽く笑って過ぎていくだけのまくらにも落語の真髄を見るのですが、せっかく軽くやってるのに、真髄とか言うのって野暮なのだとも思う。

 

この日の演目は「百川(ももかわ)」と「品川心中」どちらも古典落語。(喬太郎師匠はご自身の新作落語もいっぱいあります)

 

目の前に小さい女の子が座ってるのに女郎のお話ってところは、先月同じ会場で観た一之輔と一致(笑)

 

子ども受けを狙って、人情噺とか、「寿限無」「時そば」とかをやるって発想は絶対にない人たちなんだと思う。

むしろ落語がなんなのかって伝えるためには「品川心中」みたいなお話になったのかも。

 

落語はノンジャッジの世界です。

 

誰が正しいとか、どれが正解とかじゃなく、

ただあることを滑稽に話して笑わせて、

さっさと帰るのが粋なのだと思う。

 

「品川心中」なんて誰にも感情移入できません。

 

女郎が体裁ばかりを気にして死のうと思い、

その女郎に岡惚れするまぬけな男を

道連れに心中しようとする。

 

品川の海に身を投げようというときに

もたもたする男を女郎は突き落として

自分も海に飛び込もうとするのだけど、

 

必要だったお金がなんとかなったことがわかって、

 

ならば死ぬのはばかばかしいと自分は飛び込むのをやめて、

 

男はなんとか浜に這い上がって

 

博打中の仕事の親分の家に身を寄せて、

 

ただうまいこと言ってサゲる、

みたいな。

 

(ここまでがよく演じられる(上))

 

ストーリーだけ聞くとなんでこれが古典として長きにわたって語られてるのかなって思うけど、

 

落語はストーリーに納得するためにあるわけではないからなのだとも思う。

 

登場人物の演じわけ、ありありと目の前に広がるような状況描写、落語家によって無限にあるくすぐり(場面場面でちょっと笑わせるような工夫)、問題ありまくりの登場人物がただそのままの存在を肯定されていること(何百年も語られることの肯定といったらないですよね)、ただそのための演芸なのかなって思う。