Healing room 3

日記、および公開ラブレター!

そのアイディアにいのちが注がれるとき

このブログのページを

再開するのが

よいような

気がしたのは、

 

今後お知らせする

なにかが

出てくるような

気がしたから

だったりするのですが、

 

「気がする」だけで、

それが具体的に

どういうものなのか

わかりかねていました。

 

しかし、

ここに来て、

 

漠然と抱えていた

アイディアを

話す機会があって、

 

楽しいおしゃべりの中で、

それがどういう

アイディアだったのか、

 

わたし自身、

やっと理解できたような

すてきな時間が

ありました。

 

まだしばらくは

準備段階になるかと

思うので、

 

お知らせは

もう少し先と

なりそうなのですが、

 

気が早いのに

今これを書いているのは、

 

これだ!

と思う流れを

感じたときは、

 

なるべく

人に共有しておいたほうが、

よさそうだから。

 

時代が大きく

シフトしていく

まっただ中で、

 

仕事やものづくりなど、

 

これまでとは違う

アイディアを抱いている方

というのは

今たくさん

いらっしゃるかと

思うのですが、

 

漠然としていても、

人に共有することで、

 

いのちが注がれて、

次にどうしていったら

いいのか、

 

道のりが示されていく

ことになるのかな。

 

ほんの小さな例

かもしれませんが、

 

わたし自身感じたこととして

シェアさせていただきますね。

 

よく言われることですが、

頭の中にそのアイディアが

あるということは、

 

それが実現している

時空があるということ。

 

でも、

実際にそのパラレルを

体験するためには、

 

具体的な行動が

マストとなる。

 

このプロセスこそが、

醍醐味って思えたら

最強ですね。

 

それぞれの

アイディアを

より合わせて、

 

みんなでもって、

最高におもしろい地球に

していけたらいいですよね!

 

 

 

本文にまったく関係ないのですが、

北の国から」見てましたか!?

 

わたしは黒板家の身内くらいの勢いで

入り込んで見ていました。

 

この写真の蛍ちゃんと同じ、

赤いジャージわたしも持ってたな。

純くんの水色のジャージも同級生が着ていた。

(多分当時北海道で流通していたものかと)

 

今はどうなのかわからないけど、

北海道では体育着がなかったから、

上下ジャージで登校するのが

普通だったのです。

 

だからどうした、

ってお話なのですが(笑)

 

 

 

この人(自分)がよろこぶものって???

自分がいちばん

よろこぶことって

なんですか???

 

ひとつではないと

思うのですが、

 

わたしの場合、

「朝の時間をゆっくり過ごす」

 

ということに、

すごくしあわせを感じます。

 

ゆっくりめに

起きても大丈夫だったり、

 

洗濯などの家事も

慌てず済ませられたり、

 

そのあと

好きな飲みものを作って、

ゆっくり飲んだり。

(このときのBGMを選ぶのもたのしい!)

 

だとしたら、

どういう働き方がいいのか、

暮らし方がいいのか、

 

他のやりたいこと、

やる必要のあることとの

バランスをどうするか

 

などなど、

 

それにあわせて

デザインしていくこと

というのは、

 

やってみると

案外むずかしくは

ないのかもしれないな、

 

なんてことを

思っています。

 

(こどもが小さいうちは

無理な話だったので、

そのとき可能な範囲でと

なりそうですが)

 

今月は自分の

誕生月ということで、

 

自分へのプレゼントとして、

すきなアルバムを

アナログで探すというのも、

 

最近の楽しみです。

 

この人が

よろこぶものというと、

 

洋服だったり、

アクセサリーだったり

というよりは、

 

レコードだったり、

本だったり。

 

10代のころから

変わりません。

 

魅力的なものは

溢れているし、

 

これがイケてる!

的なものも

どんどん

移り変わって

いくものですが、

 

評価が高いものや、

たくさん支持されているものと、

 

自分にとって、

必要なこと、

よろこびを与えてくれるものは

必ずしも一致しない。

 

(あたりまえだけど)

 

この人(自分)が

何でいちばん

よろこぶのか、

 

今目の前に

あったとしても

なかったとしても、

 

それだけは

いつもクリアに

理解していたい

ものですね♪

 

 

ジョニ・ミッチェル

Court and spark

 

ジャケットの絵は本人が描いたもので

The Mountain Loves The Sea

というタイトルなのだそう。

 

この絵がめちゃ好き!

 

 

 

 

からだにまかせてみる

昨日はピアノ教室へ。

 

ご縁をいただいた

すてきな先生のレッスンです。

 

まったくの初心者として

スタートした上に、

 

月に一度程度しか

通えないので、

 

まだ何か弾ける

という段階では

ないのですが、

 

先生のお話が

おもしろすぎて、

 

毎回、たくさんの

気づきやお題を

おみやげに帰ってくる。

 

譜面は平面だけど、

音楽は立体だから、

 

そのエネルギーを

読み取り

音にして現す。

 

昨日はそんなお話を

してくれて、

 

見本として、

実際に平面バージョンと

立体バージョンの

演奏をしてみせて

くれたりもして、

 

なんというか、

無機質なものに、

いのちが吹き込まれて

動き出す瞬間を

見るようで

エキサイティングでした!

 

レッスンに通い始めてから

数ヶ月もの間、

 

わたしは

まともにピアノを

鳴らすこともできなくて、

 

緊張の高さや、

表現することへの

強い抵抗などを、

ひたすらゆるめていく

ような期間があったのですが、

 

(といっても、セラピーでも

なんでもなく、先生は

ピアノのレッスンを

してくれているだけなのですが、

先生のレッスンは不思議と

その人それぞれの解放が

起こるようです)

 

ここにきて

やっと本当に

レッスンがはじまった

ような気がしています。

 

(ピアノを習いたくて

来たくせに、

なかなかピアノを弾こうとしない

謎の生徒でしたが、

わたしに合わせて

レッスンを続けてくれた

先生に本当に感謝……)

 

からだに聴く、

からだで感じる、

からだで表現する。

 

今続けている、

呼吸法やワークとも

連動してもいて、

 

わたしにとっては、

いろいろ相乗効果を

もたらしてくれるような。

 

頭のコントロール

外して、

 

ゆるむ、

感じる、

 

そして、

からだにまかせてみる。

 

どれも、

そんなレッスンに

なっているのかな。

 

 

わたしはことばが

大好きだけれど、

 

ことばには

表現できない領域の

ことももっと大好きだから、

 

音だったり、

色彩だったり、

動きだったり、

 

そういう表現や、

コミュニケーションに

ますます

興味がわいています。

 

 

 

亀の歩みですが、

練習続けてまいります。

 

ついにわたしが手放したもの/新しい作法のレッスン

やっと、

おもしろく

なってきたような……。

 

なんの話かって、

 

ここ数年、

ずっと

「自分に人見知り」

 

みないな

気分だったのです。

 

なんというか、

 

いろんなことが

浄化され、

浄化され、

 

こちらへ、

こちらへ、

と、

 

確かな導きを

感じて、

進んできた場所が、

 

「わあ!おもろ!!!」

 

みたいな感じ、

というよりも、

 

「ん?

どないやろ???」

 

みたいな、

感じで、

 

いったいここで、

自分がこれから

どうするのか、

 

うまく描くことが

できずにいました。

 

そうはいっても、

 

毎日に楽しみは

あるし、

 

大好きな人たちも

います。

 

しばらくは

社会的には

大きく揺れ動く

時期が続いていく

ことを思うと、

 

これで十分なのかも、

 

感謝して日々を

生きるのがいいのかも、

 

という、

ご隠居みたいな

心境になって

いたのですが、

 

ポテンシャルと

そのスタンスが

そぐわないような

感じがあって、

 

謎の違和感が

ずっとありました。

 

ここにきて

やっとわかってきたのは、

 

たとえるなら、

 

わたしは大きな川を

渡って、

 

(数年がかりだったですダ!)

 

お花畑のような景色の

向こう岸に

上陸してはいるのだけれど、

 

マインドが

もとの岸のまま

すぎたし、

 

(自分への制限、

受けとるキャパの小ささ

などなど)

 

あたらしい岸では、

自分の判断や

コントロール

超えて、

 

より大きな流れの

一部として、

いろんな体験が

起こってくるから、

 

むしろ、

その小手先の

判断やコントロール

手放すことが、

課題だったのかな。

 

自分に人見知り

みたいになっていたのは、

 

新しい岸では

かつての自分的な

やり方はあまりうまく作用せず、

 

前の自分は自分で

気に入ってもいたから、

(制限的であったとしても)

 

なんか、

寂しいような

変な感情に

なっていたのだと思う。

 

でも、

こちら岸での

作法は圧倒的に違う。

 

サレンダー、

 

という言葉を

多用しておりますが、

 

とにかく、

大いなる流れ、

 

それを宇宙と

呼んでも、

 

神と呼んでもいい、

 

本当の自分に、

 

自分を完全に

引き継ぐこと。

 

あれこれ計画するよりも、

意図し、委ね、

直感に従って、

必要な行動をすることで、

 

すべての必要が

満たされ、

さらなる

流れへと

運ばれていく。

 

その流れを

完全に信じられる

ようになるために、

 

小手先の判断や

コントロール

手放して、

 

その大いなる自分に

ハンドルを渡すために、

 

わたしには

さらに

手放すことが

あったのだなあ、

 

ということも

今はわかる。

 

わたしが手放したのは、

 

「記憶」

だと思っています。

 

それは、

 

地球でくり返した

いのちの体験の中で、

 

わたしがハマってしまった、

物語のようなもの。

 

とてもとても、

苦しんだと同時に、

たまらない甘美さも

あったのだと思う。

 

後生大事に

風呂敷に包んで

持ち運んで

まいりました。

 

でも、

幻想なんス。

 

どんどん軽やかに

なっていく世界には

持って行けない、

重さのお荷物。

 

それが、気球が

飛び立てない

重りみたいに

なっていたのだなあと。

 

今、トーシャ・シルバーさん

という方の本を読んでいるのですが、

 

こんな序文で

はじまります。

 

ーーーー

 

皮肉にも

神に手綱を渡すとき

かつての願望が殻を破りはじめ

どんなかたちであれ

それは果たされる

(愛そのもののギフトとして)

そのときばかりは

あなたは願望の奴隷ではない

 

ーーーー

 

う〜ん、

 

願望の奴隷。

 

手綱を握りしめ、

執着しているうちは、

むしろ願望は

喪失や欠損のように

わたしたちを

苦しめるかもしれない、

 

けれど、

 

本当に大いなる自分を信じて

手綱を引き渡すとき、

 

思ってもいないかたちで

満たされたりする。

 

この境地になっていると、

もう願望自体に

執着はなにもくて、

 

叶っても、

叶わなくても、

どちらでもいいと

思えている。

 

そのことよりも、

すべてが完全だという

安心感。

 

絶対的

大丈夫感。

 

圧倒的

おもしろ感。

 

その感覚こそが

ギフトだったのだなあ

ということが、

わかるのだな。

 

うむ。

 

まだまだ、

新しい作法の

レッスン中ですが、

 

レッスンそのものが

おもしろくて

たまらなく

なってきてもいる。

 

今、ここに

集中して、

 

起こることを

ただ

たのしみに

していたいです。

 

 

 

子育てロスみたいなことも、

ここ数年あったかな。

 

すごく楽しくて

わたしを夢中にしてくれる

ことだったから。

 

 

バイトで北海道に行っている娘。

 

今日は

真冬の屈斜路湖

カヌーをしているらしい。

 

 

 

 

サレンダー指南/望むが、手放す

願望って、

 

ともすると、

執着に姿を

変えてしまって、

 

結果、

自らそれを

遠ざけてしまう。

 

ということって、

すごくよくある

ことだと思うのですね。

 

また、

ビジョンがあるのに、

「叶うわけない」という

思い込みが

拭えなかったり。

 

 

これも、

 

創造の担当ではない

思考というか

エゴというかが、

 

水戸黄門の位置に

ついてしまうことで、

 

起こってしまうように

と思うのですが、

 

 

望みを持つのなら、

結果に期待する

のが人情、

 

というのも、

自分のこととしても

よくわかる。

 

人情とは

名を変えただけの

エゴだったりするのが

くせものですね。

 

目覚め、

悟り、

のような状態

というのは、

 

この巧妙な

エゴのすり替えを

華麗にかわし、

 

本来のポテンシャルで

自分の旅を楽しめるように

なることなのかな。

 

よく言われる、

「サレンダー」

というのも、

 

手放すほどに、

明け渡すほどに、

 

本当の力だったり、

本当の自由だったりを

取り戻せる、

 

ということに

なるのだと

思いますが、

 

これこそが自分、

 

と思っている自分を

手放すことは、

ものすごい抵抗を

感じるから、

 

それぞれに

内的一悶着が

あったりもする。

 

現在

ネドじゅんさんの

『左脳さん、右脳さん。』を

読んでいるところなのですが、

 

すごくシンプルに

この道筋を整理して

くれていて、

 

高尾山の登山の

いちばん簡単なコースのような、

 

もはや登山の装備ではなくても

らくらく登れてしまうような

感じがするほどの

軽やかさです。

 

この本で

 

右脳さん、

左脳さん、

本体さん、

生命さん、

 

として

整理されているものは、

 

たとえば、

ホ・オポノポノで言うと、

 

ウニヒピリ、

ウハネ、

アウマクア、

 

と、

あてはめられそう。

 

ホ・オポノポノも

とてもとても

シンプルな方法で、

 

続けているうちに

サレンダーなり、

エゴの解体なりが、

自然に起こってくる

方法だなあと思うのですが、

 

本当の自分の

ポテンシャルを

とりもどすときに

 

大切そうなのは、

 

思考なり

エゴなりを、

 

金輪際、

決して、

 

水戸黄門

ポジションに

付かせない!

 

という自分の

固い決意と、

 

ホ・オポノポノだったら、

ホ・オポノポノなど、

 

これ!という

惹かれるワークが

あったら、

それをひたすら

続けてみること

なのかな。

 

いくら、

すばらしい登山コースが

オープンしていても、

 

実際に山に登るのは

自分自身しかいない

ですもんね。

 

 

ネドじゅんさんの

お話で、

 

思考が消えた

体験を通して、

「わたしが帰ってきた」

とひたすら涙が流れて

しかたなかった

 

というお話が、

わたしは大好き

なのですが、

 

もう、

 

これがあるから

しあわせとか、

 

これが無いから

悲しいとか、

 

外側のことに

ふりまわされて

遊ぶゲームは

おしまいにして、

 

自分の中に

すべてがあった、

元の自分に

わたしも

帰りたいです。

 

そうはいっても、

このからだでの

人生は続きますから、

 

自由度が

爆上がりした

中で、

 

ここで

ご一緒できている

みなさんと

新しい遊びを

楽しんでいきたい

きもちです。

 

 

大学生の娘が

北海道の奥地に2週間アルバイトで

出かけていった。

 

観光的には閑散期となるが、

ホテルのお仕事を中心に

イベントのお手伝いなどをするらしい、

 

交通費が市から補助されるとかで、

冬の北海道を楽しみにしていたけど、

娘が知っているわたしの実家は

札幌圏だから相当環境は違いそう。

 

(寒さも、買いもの事情なども)

 

まかない付きかと思いきや、

キッチンはあるから自力で

ということらしく、

 

車もないのに

真冬の北海道の奥地で

どうなることやら、

 

まあ、

間違いなく

楽しんでくるのでしょう。

 

*写真はこどものころの娘@羽田空港

 

実家に帰省するとき、

自宅から羽田も遠いし、

千歳から実家も遠いから、

 

道中全部遊びと

思ってもらおうと

必死でした。

 

この写真のときは

カーペットの色が薄いところを

ジャンプして進んだら?

と提案したら、

 

どんどん進んでくれて、

わたしは

しめしめというか、

ホッとしているところ、

だったと思う。

 

 

「チーム自分」、旅のフォーメーションが変わる

ずっと思っていたのです。

 

なぜわたしたちは、

自分のことなのに、

人に聞かなくては

いけなくなって

しまったのか。

 

(本日ちと長くなりそうです…)

 

以前、

とあるセッションを

受けたときに、

セッションの一部で

わたしのハイヤーセルフの

リーディングを

していただく

ことがありました。

 

その方のセッションの

すばらしさとは別に、

 

ハイヤーセルフとは

わたし自身であるのに、

どうしてわたしは

人に伝えてもらって

いるのだろう???

 

ということが

とても奇妙に

感じられました。

 

その後も、

いろんな場面で

その疑問が

浮かんでくるように

なりましたが、

 

こんなふうに

整理するように。

 

これまでのわたしたちは、

自分という旅の主導権を

思考が握る場面が多く、

 

水戸黄門なら

思考が黄門様のポジション

みたいな感じ!?

 

思考が悪いというよりも、

本来のポジションではない

無理すぎるフォーメーションにより、

 

自分のことが、

自分でわからなくなったり、

 

外側の影響で

本来の自分を

大きく歪めたり、


自分と誰かを

比較して、

劣等感を感じたり、

 

こんがらがって

生きざるを得ないことに

なってしまっていた。

 

しかし、

わたしたちの

本体はハイヤーセルフだから、

 

いかに無理のある

フォーメーションで

あっても、

 

ときに直感やら、

なんらかの啓示の

ようなかたちで

導きは常にあって、

 

でもそれは、

 

小さな小さな鳥が

「こっちだよ!」と

旅の一団を

ガイドする

ような感じで、

 

鳥のガイドを信じられず

水戸黄門役の思考が

打ち消してしまうことも

あるあるだったかと思うし、

 

潜在意識に痛みを

抱えていたりすると、

鳥さんがうまく飛べなく

なってしまったりもして、

 

まとめますと、

 

「無理すぎるフォーメーション」

及び、

「ガイドの故障」

 

というのが、

 

地球での旅を

なかなかに

困難にしてきた

理由になるのかなあ……、

 

なんて、

思っています。

 

水戸黄門

暴君になりすぎていたり、

 

ガイドの鳥さんが

瀕死の状態

だったりした場合、

 

なにか調整や、

ケアが必要に

なりそうですが、

 

今はっきりと思うのは、

 

なにもかもを

手っ取り早く

好転させられて、

 

自分という旅を

こころから楽しんで

行くためには、

 

「チーム自分」の

フォーメーションを

本来のかたちに戻す!

 

ということに

尽きるのかな

 

ということ。

 

水戸黄門体制は

解体され、

 

それぞれに

本来の配置に付く

みたいなイメージです。

 

地球での体験の

ベースとなる

このからだの中に

ハイヤーセルフが

直接乗り込んで、

 

直感なり、

思考なりが、

本来のかたちで

機能して、

 

新しい旅が

はじまる!

 

みたいな感じ。

 

 

藤井風くんの

graceではないですが、

 

♪わ〜たしに会えてよか〜った〜

やっと自由になれた〜

 

の瞬間をそれぞれに

迎えていくことに

なるのかな。

 

 

だんだんわたしも

一体感を

感じてきているような

気がしています。

 

 

てなところで、

本日はここまでに。

 

ではではまた!

 

桂二葉さんに夢中💛

 

まあたらしいフェーズに向けて/マストはときめき!

じわじわ

断捨離&大掃除

続けております。

 

旧正月を照準に……)

 

加えて、

 

手軽に行える

ボディワークも

ほぼ毎日続けていて、

 

どちらかというと、

物理的メンテナンスに

重点を置いて

過ごしていることに。

 

(冷えとりもベースとして!)

 

ともすれば、

内面的なことに

偏りがちとなり、

 

気が上がってしまったり、

 

思考ぐるぐる丸化する

傾向にあるので、

 

わたしの場合は、

 

からだや物質面からの

アプローチが

バランスがよさそうです。

 

同じ自分が続いていく

というよりも、

 

まあたらしいフェーズが

スタートしていくような

流れは、

 

ますます本格化

していきそうな本年。

 

昨年までは、

これまでの自分の

手放しや整理、

 

手探りでの

あたらしい土壌

づくりみたいな

感じがあったのですが、

 

だんだんと具体的な

はじまりが起こっていきそう。

 

(うふ!)

 

転機というのは

人生に何度か

あるものかと

思いますが、

 

ここから数年、

多分誰にとっても

人生でいちばんと言える

転機になっていくのかな。

 

一見不都合に思えることが

あったりしても、

 

小手先のコントロールを超えて、

大いなる調整は起こってくるから、

 

一喜一憂することなく、

自分や環境のメンテナンスなど、

淡々としていけたら

って思っています。

 

 

 

こどもたちといると、

予想外のことが常に起こるので、

本当にあきるということが

ありません。

 

わたしにとって

生きるのに不可欠なのは、

きっと「ときめき」で、

 

ときめきって、

予想外のことでしか、

起こらないから、

 

こどもたちといる時間は

わたしのことを

夢中にさせてくれるのだと思う。